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掃除人の秘密の使命 掃除屋タケシの星間浄化記録 第一話「特上の汚れ」



第一話「特上の汚れ」


 ホンダタケシ、五十七歳。

 身長百七十二センチ、体重七十一キロ。白髪交じりの短い黒髪。銀縁の眼鏡。三ツ星清掃サービスの水色のポロシャツ。どこにでもいる、掃除のおじさん。

 朝五時四十分。

 まだ夜の名残を引きずった空の下、タケシはカガワフーズ株式会社のビル前に立っていた。全面ガラス張りの二十三階建て。東証プライム上場。食品業界のホープ。新聞や経済誌に何度も取り上げられた、今をときめく優良企業だ。

 タケシはカートを押しながら自動ドアをくぐった。

 清掃用具一式。モップ、バケツ、洗剤、ちりとり、ぞうきん。長年の相棒たちは、主人と同じように、何の感動もなく新しい現場に入っていった。

(今日もええ大理石や)

 ロビーの床を見て、タケシは内心で小さくうなずいた。

 磨きがいがある。それだけが、今朝最初の感想だった。

ホンダタケシ、五十七歳。
ホンダタケシ、五十七歳。



 バケツに水を張り、洗剤を適量溶かす。モップを絞る。押す。引く。押す。引く。

 三十二年間、変わらない動作。

 ただし、この動作が単純な清掃のためだけに行われていたのは、最初の一年だけだ。残りの三十一年は、ぜんぶ別の目的のための準備時間である——と、タケシ本人は思っている。

 首にかけた古いヘッドフォンが、かすかに温かくなった。

 通信が来ている。

「おはようさん」

 タケシは独り言のように言った。清掃員が何かをぶつぶつ言っていても、誰も気にしない。三十一年の経験から学んだ、便利な真実だ。

『おはようございます、タケシさん。本日の対象ビルに関する補足情報です』

 ヘッドフォンから、若い女性の声が聞こえた。星間管理局の担当オペレーター、コードネーム「ひまわり」。本名も顔も、タケシは知らない。必要ないからだ。

「補足って、昨日の時点でグレード4確定やったんちゃうの」

『はい。ただ、新しいスキャン結果で活動期間が当初の推定より長いことがわかりました。最短でも三年はこのビルにいる計算です』

「三年か」

 タケシはモップを止めずに答えた。

「つまり根が張っとるわけや」

『おそらく組織全体に影響が及んでいます。ご注意を』

「わかった」

 それだけ言って、タケシは通信を切った。

 モップを押す。引く。押す。引く。

 ロビーの床が、少しずつ光を取り戻していく。


 ロビーの隅のベンチに、一人の女性が座っていた。

 二十代後半。きちんとしたスーツ姿なのに、膝の上のスマートフォンを見つめる目が、今にも溢れそうなものを必死に堪えている。出勤前なのか、それとも昨夜からここにいるのか。タケシには、どちらでもよかった。

 自分の仕事をするだけだ。

 モップを押して彼女のそばを通り過ぎようとしたとき、ポケットの中で何かが震えた。

 取り出すと、古い携帯ゲーム機のような機械だった。液晶は小さく、表示は質素だ。数字と記号の羅列を、一般人が見ても何も読み取れないだろう。

 タケシには読めた。

▲ ORGANIC INTERFERENCE DETECTED — GRADE 4 / APPROACH WITH CAUTION

「やっぱりおるな」

 小声でつぶやき、機械をポケットに戻す。

 ベンチの女性は、タケシの独り言を聞いていなかった。それでよかった。


 午前九時。

 始業時間になると、ビルが急に別の生き物のように動き出した。エレベーターが忙しなく上下し、スーツ姿の人間が次々に吸い込まれていく。タケシは清掃カートを廊下の端に寄せ、邪魔にならないよう壁際に立った。

 そのとき、社長室のドアが開いた。

 カガワセンジ、四十五歳。カガワフーズ株式会社代表取締役社長。雑誌のインタビューで「食で人を幸せにしたい」と語り、慈善団体への寄付も惜しまない。地域の模範的な経営者として、市の表彰状まで持っている男だ。

 高級スーツをきれいに着こなし、白い歯を見せて廊下に出てきた。

「ごくろうさまです!」

 タケシと目が合うなり、社長は弾んだ声で言った。「床、ピカピカですねえ。いつもありがとうございます」

「いえ、どうも」

 タケシは頭を下げた。

 社長が通り過ぎていく。その背中を、タケシは追いかけなかった。ただ、眼鏡の奥の目で、一瞬だけ、カガワの横顔を見た。

(目の奥に、虹彩がない)

 人間の目は、どんな色であれ、光を受けると虹彩が微妙に動く。瞳孔が開いたり閉じたりする、生き物の証明みたいなものだ。

 カガワの目は、動かなかった。

 完璧に人間に見えるのに、その一点だけが、タケシには嘘に映る。三十一年間で磨かれた、これもまた別の種類の「目」だった。

(確定や)

 タケシはモップを再び押し始めた。


 昼休みに、タケシは休憩室でひとり缶コーヒーを飲んでいた。

 ブラック、無糖。甘いものが苦手なわけではなく、ただ昔からの習慣だ。なぜそうなったかは、もはや自分でも覚えていない。

 ドアが開いて、朝のベンチの女性が入ってきた。

 自販機の前で立ち止まり、ボタンを押さないまま、ぼんやりと液晶を見ている。選んでいるのではなく、ただそこに視線を置いているだけだ、とタケシにはわかった。

「……どうしたらいいんだろ」

 独り言のつもりだろう声が、静かな休憩室に零れた。

「悩んでんのか」

 タケシが言うと、女性がはっとして振り返った。

「え、あ……すみません。清掃の方に、こんな話」

「ええんやで」

 タケシは缶コーヒーに口をつけた。「言っても、言わんでも」

 女性——マツダユキと、首から下げた社員証には書いてあった——は少し迷ってから、自販機の前を離れてテーブルの端に腰を下ろした。

「……変な話なんですけど」

「聞くだけ聞く」

「うちの社長が、食品に何か混ぜてる気がするんです」

 タケシの手が、わずかに止まった。

「感じるんです、なんとなく。でも証拠もないし、私の気のせいかもしれなくて。それに社長すごくいい人だし、みんな信頼してるし……でも」

「でも、気持ちが悪い」

「……そうです」

 ユキは膝の上で手を握った。「気持ちが悪いんです、ずっと。でも、怖くて動けなくて」

 タケシは残りのコーヒーを飲み干した。

 缶をゴミ箱に投げる。きれいに入った。

「今日の夜、このビルに戻ってくるな」

「え?」

「夜間清掃が必要やから」タケシは立ち上がり、カートのほうへ歩き出した。「汚れがひどい」

 ユキが何かを言いかけたが、タケシはもう廊下に出ていた。


 夜の十一時。

 タケシは再びカガワフーズのビルの前に立っていた。今度は清掃カートを持っていない。代わりに、肩から古いスポーツバッグをかけている。中身は、清掃用具ではない。

 ヘッドフォンが温かくなった。

『対象は現在、二十三階の社長室にいます。一人です』

「夜遅くまで働き者やな」

『タケシさん。グレード4は物理干渉が有効ですが、本星形態に移行する可能性があります』

「毎回それ言うな」

『毎回それが起きるからです』

 タケシは鼻から息を吐いた。

「わかっとる」

 自動ドアをくぐる。夜のロビーは薄暗く、警備員が一人いたが、タケシが胸ポケットから夜間清掃の許可証を出すと、何も言わずに通した。本物の許可証だ。三ツ星清掃サービスは実在する会社であり、タケシはそこに実際に雇われている。

 それは、完全に本当のことだ。

 それ以外のことが、少し多いだけで。


 エレベーターで二十三階に上がると、廊下の端の社長室から、うっすら光が漏れていた。

 タケシはバッグからモップを取り出した。

 普通のモップに見える。三ツ星清掃サービスのロゴが入っていて、柄は軽いアルミ製で、先端には白いモップヘッドがついている。それが基本形態だ。別の使い方をするのは、必要なときだけでいい。

 ドアをノックする。

「はーい」

 明るい声。

 ドアが開くと、カガワが立っていた。昼間と変わらない完璧な笑顔。ネクタイまでまだきちんと締めている。

「あれ、夜間清掃の方?すごいな、こんな時間まで。どうぞどうぞ、散らかってますよ」

「失礼します」

 タケシは室内に入った。

 散らかってはいなかった。むしろ異様なほど整然としている。デスクの上の書類は一センチの狂いもなく整列し、観葉植物は等間隔で並び、空気には微かに——人間には感じ取れない程度に——甘い匂いが漂っていた。

(服従物質や。濃度は低いが、確かにある)

 タケシはモップを床に置き、ポケットから識別器を取り出した。

 カガワのほうへ、静かに向けた。

 液晶に数字が走る。

 カガワの笑顔が、ぴたりと止まった。

 人間の顔が表情を失うとき、少しずつ変わる。驚き、戸惑い、それから怒りや恐怖。感情が段階を踏んで変化する。

 カガワの顔は、一瞬で変わった。

 笑顔の下にあったものが、そのまま表に出てきた。それは感情ではなかった。ただ、計算だった。

「……どこのセクターだ」

 声のトーンが、まったく別のものになっていた。

「三ツ星清掃サービス」

 タケシは答えた。

 カガワの目が、細くなった。

「ふざけるな」

 その言葉を最後に、部屋の空気が変わった。


 まず、窓が割れた。

 内側から、圧力で。

 カガワのスーツが膨らみ、縫い目が一斉に弾けた。シャツが千切れ、ネクタイが吹き飛んだ。背中から、腕が生えた。二本。四本。六本。それぞれの先端に、人間の手に似た何かがついている。

 身長が伸びた。天井に頭が届いた。天井板を突き破って、さらに伸びた。

 目が増えた。額に二つ、頬に二つ、顎の下に二つ。合計八つの目が、タケシを見下ろした。

 三年間、このビルで人間として過ごしてきた存在の、本当の姿だった。

「ふん」

 タケシは眼鏡を外して、胸ポケットにしまった。

「大きいな」

 それだけ言った。

 目が、静かに光った。銀縁の眼鏡がなくなると、タケシの目の色が少し変わる。正確には、色が増える。金色の、細い光の線が、瞳の中に走る。それがタケシの「別の部分」が目覚めたサインだ。

 モップを握り直す。

 柄の中程を持って、ゆっくりと構えた。


 戦闘は、四分十七秒で終わった。

 タケシの動きには、無駄がない。派手さもない。六本腕の巨体が振り回す攻撃を、最小限の移動でかわしながら、じりじりと間合いを詰めていく。

 モップの柄が光を帯びたのは、残り三十秒のところだった。白いモップヘッドが消え、代わりに青白い光の束が先端に現れた。長さ一メートルほどの、槍に似た形。

 タケシはそれを、一突きした。

 過不足なく。

 カガワの本星形態が、光の粒子になり始めた。六本の腕が順番に消えていく。八つの目が、一つずつ閉じていく。最後に残ったのは、人間の顔の形をした薄い膜で、それも数秒後に霧散した。

 デスクの上に、高級腕時計が一つ、音もなく落ちた。

 タケシは息を整えた。

(あー。やっぱりシャツが汚れた)

 ポロシャツの袖に、光の焦げ跡がついていた。三ツ星清掃サービスのロゴの下、少し。クリーニングに出しても取れないやつだ。

 首のヘッドフォンが温かくなった。

『確認できました。グレード4、無効化完了。同時に地下の製造ラインも停止したようです』

「よかった」

『タケシさん、お疲れ様でした。今回は——』

「報告はメールで頼む」

 タケシはすでにバッグからちりとりを出していた。

『……今、現場ですか』

「割れた窓の破片が危ないやろ」

 ヘッドフォンの向こうで、オペレーターが小さくため息をついた。

『……了解です』


 夜明けが近い頃、タケシはロビーの床を磨いていた。

 社長室の後片付けはひととおり終えた。窓の破損については「ガス漏れによる軽微な爆発があった」という報告書が、翌朝には警察と消防に届くことになっている。そういう手配は、星間管理局の仕事だ。タケシの仕事は清掃だ。

 ロビーの自動ドアが開いた。

 ユキが入ってきた。

 早朝出勤のつもりだったのだろう。タケシの姿を見て一瞬驚き、それから遠くに見える社長室の方向を見て、また驚いた。

「あの……社長室が……」

「ガス漏れで少し爆発した」

 タケシは磨きながら答えた。「怪我人はおらん」

「そう……ですか」ユキはしばらく沈黙した。「社長は?」

「おらんようになった」

 また沈黙。

 タケシはモップを押し続けた。説明するつもりはなかった。説明できることと、できないことがある。どちらとも言えないことが、一番多い。

「……ありがとうございます」

 ユキが、静かに言った。

 タケシは返事をしなかった。

 代わりに、磨いた床を一度だけ見た。朝の光が、ガラスの向こうから差し込み始めていた。大理石の表面が、きれいに光を反射している。

「床、綺麗にしといたで」

 タケシはそれだけ言って、カートを押して歩き出した。

 ユキの返事は聞かなかった。聞かなくていい。

 自動ドアの向こうで、空が白み始めていた。今日の清掃現場は、午前九時から別の場所だ。カートを返して、着替えて、電車に乗る。ヘッドフォンからの次の指令は、おそらく夕方か夜になるだろう。

 それまでの時間が、タケシの時間だ。

 コンビニでコーヒーを買って、公園のベンチで飲む。今日の公園は桜が散り終えて、緑だけが残っているはずだった。それもいい、とタケシは思った。

 派手な季節より、静かな季節のほうが、落ち着く。

 ホンダタケシ、五十七歳。

 掃除のおじさんは、朝の街へ消えていった。


◆次回予告

 第二話「星の匂い」

 全国を旅しながら孤独な人間を見つけ出し、その精気を少しずつ吸い取っていく移動型の星間生命体。その宿主は、テレビにも出る有名ラーメン評論家だった。

 深夜のラーメン店。湯気の向こうに、タケシは座る。丼を一杯、静かにすすりながら、奴が来るのを待っている。

 メンマが柔らかかった。

 それだけが、今夜唯一の不満だった。


掃除屋タケシの星間浄化記録・了(第一話)


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